ヴェネツィア病院内にて、13世紀のモザイク発見 |
ヴェネツィア市内の総合病院で、13世紀のモザイク画の一部が発見された。
病院といっても、かつては「スクオラ・グランデ・ディ・サン・マルコ(Scuola Grande di San Marco)」という同信組合の建物、昨年より一般公開されている歴史的建造物の中のホールで、昨日21日、一般市民向けのお披露目式が行なわれた。
病院の改装工事中に、ある柱の中にそれが埋めこまれていたのが偶然、発見されたというのでまずはビックリ。さすがイタリア、さすがヴェネツィア。
スクオラ自体、ヴェネツィア・ルネサンスを代表する建物の1つで、なのでその歴史的建造物に関わるものかと思いきやそうではなく、調査した修復士によると1950-60年代にそこに埋め込まれたものらしい。
そして調査の結果、サン・マルコ大聖堂のナルテクス(前室部分)のクーポラの一部だったことがわかった。
一番上が、発見、洗浄後の現在の状態。
具体的には、L字型ナルテクスの聖堂正面に向かって左翼の2つめのクーポラ。ナルテクス全体は、旧約聖書の「創世記」の物語で埋められているが、そのうちの「ヨセフの物語」の一部。モザイクの「顔」は、兄達にうとまれてエジプトに奴隷として売り飛ばされたものの、その預言力で生き延び、最後には兄らを救うヨセフ本人である。
では、該当の部分、クーポラのモザイクが欠けているかというとそうではなく、現在はこうなっている。(写真)
こちらは合成写真で、本来の状態。
顔つきがずいぶん違う上に、頭の後ろにかぶっている柱頭や左右の人物の姿などが消され、金のテッセラ(ガラス片)で埋められている。
19世紀初め、傷みの相当激しかったサン・マルコ大聖堂は早急に修復、保護措置の必要があった。修復家としてその任命を受けたのはモザイク師のジョヴァンニ・モーロという人物。たった1人でその責務を追っていた彼は、そこにあるモザイクを次々に剥がし、自らの作った新しいモザイクで置き換えるという方法を取った。
できるだけ、今ある姿を残す現在の修復と違い、そのころはまだ、古いものは新しいものに取っ替える、というのが当たり前だった。だからそれ自体は一概に責めることはできないと思う。ところが問題は、彼の修復のあと、膨大な「モザイク」が流出したこと。実は同じことが、同じ人物の手によってラヴェンナでも起きていて、ラヴェンナのアフリチヌす教会は、彼の「修復」作業のあと、箱が4つ、ドイツへ向け送られた。現在、ベルリンのボーテ美術館に展示されているモザイクは、そのときに持で出されたもの。
本題の「ヨセフ」に戻ると、彼の周りが全部、金色のテッセラで置き換えられているのは、これだけを単独の「イコン」のように見立てることにより流通がよりスムースになったためと考えられる。
この偽イコン、聖マルコのホンモノの13世紀のモザイクが、病院で発見された理由はわかっていない。病院の記録にもそれらしき記述はないらしい。個人の所有者が入院時に持ち込んだのか、そしてあるいはそれを感謝の気持ちをこめて病院に寄贈したのか。柱にはごく簡単な方法で埋められており、持ち出そうと思えば誰にでもできる状態だったという。
サン・マルコのモザイクはそうして大量に持ち出されたまま、現在も世界中の公私コレクションに離散している。
ある意味、そのうちの1つが、ヴェネツィア市内の公共施設で発見されたのは、せめてもの慰めといえよう。今後このモザイクは、スクオラ内で誰でも見学できるところに常設になる。
サン・マルコ大聖堂とスクオラ・グランデ・ディ・サン・マルコは、どちらも聖マルコを守護聖人に抱いているものの、直接の関わりはなく独立した組織。のはずが、聖堂のモザイクがスクオラで発見されるのも「縁」なら、それがまた柱の中から出てきた、というのもいい。なぜなら、大聖堂自体、聖人マルコの聖遺体を奉るために建てられたにも関わらず、いざ完成したときには肝心の遺体がどこへ行ったかわからなくなってしまい、皆で懸命に祈願したところ、柱の1つがかぱっと開いて、そこから腕が出て、遺体のありかを示したというエピソードがあるから。その場面はそして、聖堂内のモザイクに描かれている。
スクオラ・ディ・サン・マルコについてはまた追って、ご紹介したいと思う。
22 nov 2014