ガラスの仕事〜不況はアイディアの素、エルコレ・モレッティ |
「ロゼッタ」にはじまり「ミッレフィオーリ」のビーズを手がけ、順調に事業を拡大していたエルコレ・モレッティ社にも、1929年アメリカの株暴落を引き金とした世界恐慌の
波は訪れた。さらに36年、イタリア軍によるアビシニア(現エチオピア)占領と、その後の国際連盟による経済制裁のため、輸出に大きな打撃を被る。
苦境の中、モレッティ兄弟は、新たな製品開発に乗り出す。
まずは「カット・ガラス」のビーズ。
これは、数色を組み合わせたガラス管をカットし磨く、という点で、モレッティ兄弟の出発点である「ロゼッタ」の技術の応用と言えるだろう。「ロゼッタ」はあくまでも、切り口の星形模様を生かした定番のビーズなのに対して、星形にこだわらず、より幾何学的で、モダンなデザインが特徴。(残念ながら適切な写真なし・・・)
1932年、34年には、ヴェネツィア・ビエンナーレのヴェネツィア館にもエルコレ・モレッティの作品が展示されている。(残念ながら写真ひどいですが・・・)
そして画期的なアイディアだったのが、ガラスの花たち。1つは、ムッリーネを薄く薄くカットして磨いたもので、中の花模様をそのまま花として利用したもの、もう1つは、ガラスで花びらや葉を作り組み立てていくもの。今見ると、えっこれが?という感じもするが、これは初めミラノの展示会で大評判となり、そのあと35年にはフランス、ニースの博覧会で「グランプリ」を得たという。実は、ほかのガラス製品を作ったときに発生したかけらや破損品などの再利用の目的もあったというから、見事というしかない。
もう1つ、これは彼らの発明ではなく、おそらくフランスでは既に使われていたとされる銅管の利用。前回、「細い棒の先に・・・」とさらっと書いたが、もともとは鉄の棒を使っていた。ところがこれは見た目ほど簡単な仕事ではなく、とくに鉄では作業中にさまざまな注意が必要なことと、もう1つは、ビーズの中心、つまり穴の部分にどうして濁った色合いが残ってしまい、完全な透明感が出ないことがネックとなっていた。
銅自体は金属であるため、銅の棒ではやはり鉄と同じ問題があるのだが、それを細い管にすることで、作業中の破損などの問題が相当解消するらしい。おまけに穴がきれいにできること、また、穴自体をうんと小さくできることなど、製品としての質もまた大幅に向上する。とはいえ、当時はこの作業に適した極細の銅管などは存在しなかったから、モレッティ社はそれすらも自前で製造したというのだからビックリ。
そして「モラッティが銅管を使っている!」という噂は瞬く間に広がり、ほどなく、ヴェネツィア市内の鍛冶屋がその銅管を作る専門の機械を置いたというからさらにビックリ。2002年に最終的に鍛冶屋が閉鎖するまで、そこで銅管を製造していたらしい。
モレッティ兄弟の挑戦は続く。
1930年代後半、彼らの新たな製品は、ガラスの「ボタン」。そう、ワイシャツに始まり、さまざまな衣料用のボタンは、これまで主に、チェコスロバキア製の輸入品が使われていたのだが、ここにモレッティは参入する。
新たな市場の開拓であると同時に、これはまた彼らの「ガラス」製造において、技術面でもまた新たな技術の導入であった。それは、プレス機の導入。
これまでは、ビーズにしても花びらにしても、1つ1つ手作業で作られていたが、型押しで一度に複数できあがるボタンは、それがたとえ、プレス自体は相変わらず手作業であるし、ボタンはボタンで最終的には1つ1つ磨きをかける必要があるとしても、やはりそれまでとは違った作業効率であったことは疑いない。
さらにこの時期、薬用のガラス瓶の需要が高まっていたが、モレッティ社ではなんと、これも手がけている。これらの小さなガラス瓶は当時、女性達がテーブルの上で「吹いて」製造していた。今でも、ムラーノ・ガラスといえばまず第一にイメージされる「吹きガラス」がむくつけき男性の「マエストロ」たちによって作られているのと全く違い、芸術的作品でないから表だってとりあげられることもほとんどない。だが、これもまたムラーノのガラスの歴史の一部だった。
続く。
31 mar 2015