ヴィヴァルディを追って〜ヴェネツィア散歩 |

サン・マルコ湾を見渡すスキアヴォーニ河岸(Riva degli Schiavoni)から1本入ったところ、にもかかわらず大勢の観光客の喧騒とはまるで無縁ののんびりした広場に、アントニオ・ヴィヴァルディの生家がある。
サン・ジョヴァンニ・イン・ブラゴラ教会(Chiesa di San Giovanni in Bragora)のあるバンディエラ・エ・モーロ広場(Campo Bandiera e Moro)、当時は大広場と呼ばれていたらしい。正確にはどの位置かは明らかになっていないのだが、この棟続きのうちのどこかで、あの「四季」で有名な作曲家は生まれた。1678年3月4日のこと。洗礼はその2日後、産婆の家で行われたが、そのすぐ脇にある教会の中に入ると左手に、ヴェローナの赤石を使った16世紀の洗礼盤があって、その脇に、この教会に残されている洗礼の記録のコピーがひっそりと展示されている。

1703年3月23日、25歳のときに、当時ヴェネツィアの大司教座教会であったサン・ピエトロ教会で、神父の叙階を受ける。生誕地から遠くない、サン・ジョヴァンニ・イン・オレオ教会で、神父として初のミサを執り行うが、この教会は、1762年に建て替えられている。
ヴィヴァルディは同年9月1日より、ピエタ教会(Chiesa della Pietà)で、ヴァイオリンの教師として仕事を始めた。
翌年には、「ヴィオラ・ダ・ガンバ(Viola da gamba、足のヴィオラという意味の古式弦楽器)」の指導も任命されるが、1709年2月24日に一旦契約が切れると更新されず、1711年9月に再開された。
そして、同教会の音楽監督であった前任者が1714年に退任すると、ヴィヴァルディは後任として2年間そのお役目を務める。一度マントヴァに呼ばれたあと、5年後に再びピエタ教会で、マエストロ・デイ・コンチェルティに任命される。これは、月に2曲、コンチェルト(協奏曲)を作曲しつつ、1週間に数回、音楽指導を行う、というものだった。
これは、ウィーンに発つ1740年5月まで続く。

こうしてヴィヴァルディは、1703年から1740年まで断続的に、ピエタ教会とその付属養育院で音楽指導を行っていた。18世紀ヴェネツィアを代表する画家、ティエポロの美しい天井画で知られる同教会を含むこれらの施設は、すべてその後建て替えられたもので、残念ながらヴィヴァルディ当時の姿を残してはいない。だが、両脇に作られた聖歌・聖楽隊用のテラスがあり、当時の様子を想像して楽しむのは悪くない。なお、現在は教会内に養護院の歴史を伝える小さな博物館があり、このテラスにも上がれるようになっているが、それについては、またの機会に。
ヴィヴァルディ時代の教会の柱、井戸、そして教会と施設をつなぐ階段の一部は実は、そのお隣にあるメトロポール・ホテルの中に残されている。
また、1713年に、今はなきサンタンジェロ劇場で、音楽監督および作曲家に就任。タイトルはいろいろ変わりつつ、これは39年まで続いた。ヴィヴァルディはここで、自らの曲を20曲、発表している。

私生活ではというと、1705年にヴィヴァルディ一家は、サンティ・フィリッポ・エ・ジャコモ広場(Campo Santi Filippo e Giacomo)の一角に引っ越す。1708年までいたあと一度別の場所へ移り、再び、1711年から1722年までを過ごすが、この間の正確な住所などの詳細はわかっていない。

そして1722年には、サンタ・マリア・フォルモーザ広場(Campo di Santa Maria Formosa)に近い、ドーゼ河岸(Fondamenta del Dose)へ。ヴィヴァルディはここで母親を亡くすが、そのころは、フランス大使館の依頼による仕事をしていたという。

1730年、ヴィヴァルディは父親と兄弟姉妹らを連れ、ベンボ通り(Calle Bembo)のアパートメントに引っ越す。ここは、入り口こそ路地にあったが、中2階にある部屋は、カナル・グランデに面していた。そしてここには、まだ若き、カルロ・ゴルドーニもやってきた。やがて大戯曲家となるゴルドーニは、のちに作品の中で、ヴィヴァルディとの出会いについて語っている。
1740年5月に、ヴィヴァルディはヴェネツィアをあとにし、ウィーンへ向かう。翌41年7月、ヴェネツィア出身の大作曲家は、故郷を再び目にすることなく、現地でその生涯を閉じた。

この内容はすべて、Sylvie Mamy, Paggeggiate Musicali a Venezia dal XVI al XX secolo を参考にしています。
25 lug 2016


