「小さな美徳」ほか、若きナタリーア・ギンズブルグを一気に |
「町へゆく道」、「夜の声」、「わたしたちのすべての昨日」、と、ナタリーア・ギンズブルグの中・短編集と、随筆集「小さな美徳」を年明けくらいから断続的に、少しずつ読んだ。
1963年に発表した「ある家族の会話」でイタリアの最も権威ある文学賞であるストレーガ賞を受賞、ナタリーアとやがて個人的にも親交を結ぶようになる須賀敦子さんがそのエッセイの中で触れているように、日常の家族の中での「会話」、「ことば」の思い出を紡いだ物語という全く新しいアプローチを確立した作品であり、須賀さん自身、日本語への翻訳を手がけただけでなく、直接大きな影響を受けている。語りの口調といい、内容といい、当時この本がいかに斬新で、ほとんど挑戦的といえたであろうことは想像に難くない。
そしてギンズブルグは、「マンゾーニ家の人々」、「モンテ・フェルモの丘の家」と、口頭で交わされた言葉ではなく、彼らの間で交わされた「手紙」で物語を編むという手法に発展させてゆく。おそらく日本では、須賀敦子という翻訳者からギンズブルグの名を知る人も多いであろう、彼女の訳出したこの3冊は、イタリア現代文学翻訳書の金字塔のように輝いている。
冒頭に挙げたのはいずれも、「ある家族の会話」より前に書かれたもので、未邦訳だったのだが望月紀子さんの翻訳で2014年から昨年にかけて次々と発行された。
ギンズブルグの作品の特徴は、一貫していずれも、家族の物語であること。親子兄弟に親族、近所の人々、友人と、極めて密度の濃い人々の間で進む物語。いや、なにもすすまない、といったほうがいいかもしれない。そしてもう1つは、どの本にも、どの小説にも、いわゆるいい人は一人も登場しない。出てくるのは誰もかれも欠点だらけで、理想的な人はもちろん、悪い人だけど憎めない、とか、乱暴者だけど心根はやさしい、とか、どんな逆境にも耐えてチャンスをつかみ取るとか、ふつうなら小説を形作っているはずのわかりやすいキャラクターが全く存在しない。それぞれがみな、自己中心的でわがままで、容姿もさえなければ性格もいいとは言い難い。つまり、ドラマチックな展開からは程遠い。あきれるほどさえない人ばかりで、これでどうしてお話が成り立っているのだろう?と不思議に思ってしまうくらい。
だが、考えてみれば現実の世界だって、そんなヒーローやヒロインばかりでできているわけではない。むしろこうした、どうにもこうにも中途半端で、身の上におこるできごとを受け止めて、いやしばしば受け止めきれぬまま、だだ漏れのまま生きていくのが精一杯、という人が大半なのではないだろうか。
読んで、決して楽しい気分になる本でもなければ、頭がすっきりする本でもない。むしろ、一種の憂鬱と、説明しがたいおりのようなものが、ずんと心の底に残ってしまう。だが、「ある家族の会話」や「モンテ・フェルモの丘の家」が、大きな賞を受賞したりロングランになるような完成した映画だとすると、これら初期の小説はまさに、若い作家の実験的な映画を見るようで、印象的な作品といえる。全部読んだところで、またもう1回読んでみたいような気になった。
「わたしたちのすべての昨日」 望月紀子訳
「夜の声」 望月紀子訳
「街へゆく道」 望月紀子訳
「小さな美徳」 望月紀子訳
なお、それぞれが中・短編集になっており、表題以外の作品も複数含んでいる。
26 mag 2018