オペラ衣装美術デザイナー大町志津子さんと須賀敦子さん |
ヴェネツィアの「椿姫」でデビューを飾り、以来、ローマのオペラ劇場、モナコ公国モンテカルロ劇場など、広くヨーロッパで活躍するオペラ衣装美術デザイナーの大町志津子さん。イタリアで30年以上も暮らしたあと、現在は日本に拠点を移していらっしゃるのだが、自ら「天職」と認めるこの仕事に導いてくれたのが、エマウス運動と須賀敦子さんだったという。
朝日カルチャーセンター中之島で先日、「没後20年 知られざる須賀敦子を語る」と題した講演会第2回が行われ、大町さんがそのエピソードなどを語った。
エマウス運動とは、1949年にアベ・ピエール神父がパリで、失業者、浮浪者の救済と更生を目的として、彼らとともに始めた廃品回収に端を発する活動で、日本では、イタリアから帰国したばかりの須賀敦子さんが一時、東京で参加、責任者まで務めていたことで知られる。
一方、ふつうの学生生活に飽き足らず、何か新しいことを求めていた大町志津子さんは、たまたま新聞の片隅で見つけた神戸のヤング・エマウスの会に興味を惹かれ、門戸をたたく。
初めての出会いは、須賀敦子さん43歳、大町志津子さん19歳のとき。大きなメガネにジーンズとジャケット、化粧っ気のない須賀さんは、カリスマ的で、いかにも女性活動家というイメージだったという。
そして、大町さんはそのヤング・エマウスの国際キャンプに参加する。南仏のニームで共同生活を送るこのイベントには、18カ国から数千人の若者が集まっており、大きなカルチャー・ショックを受ける。そして、そのニームを訪ねてきた須賀さんは、フランス語も流暢で大きな安心を与えてくれるとともに、同じ日本人として誇りに思えたのだった。
やがて須賀さんは、文学研究者としての仕事が多忙になりその役を降りる。
一方、大町さんは、体を動かすだけでなんとか通じるという得難い経験をもとに、言葉がわかればもっといい、と自分探しの旅に出る。
ロンドン、ヴェネツィア、ミラノ、ローマで美術、ファッションを学んだあと、ヴェネツィアで舞台衣装の世界に出会う。そのアトリエでは、これまで博物館しか見たことのなかったような衣装を、たった数日の舞台のために一から、登場人物の分100着以上も制作していた。その国の芸術と文化とをすべて反映させたその仕事に、これだ!と確信する。
日本とイタリアと、遠くに離れていながら親交を続けていた須賀敦子さんに、大町さんが「(やりたいことが)やっと見つかった!」と報告すると、「結婚する、と言われても、へーそう、と答えるだけだけど」と前置きした上で、「こんな嬉しいことはない」と喜んで、「好きなだけ食べなさい」とお寿司をご馳走してくれたという。そして、「あなたのデビューのときには、世界中のどこであっても必ず見に行くから」と。だが、残念ながら須賀さんは、大町さんのヴェネツィア・デビューの2年前にこの世を去ってしまった。
本場イタリアで、オペラは自分たちのもの、東洋の小娘に何がわかる、と自負と偏見に満ち満ちた世界で、衣装そのものはもちろんのこと、歴史も慣習も言葉も不可欠、なによりもデザイナーというのは多くのスタッフを束ね、動かしていかなくてはならないディレクターとしての資質も求められる。どれだけの差別やいじめがあったか、想像を絶する。絶対に負けない、絶対に成功させたいという意志が、障害を乗り越え、壁を打ち破ってきた。一見、たおやかで優しげで、やわらかな印象の大町さん、どこにそんな力が秘められているのだろう、と思う。だがそれこそが、ほんとうの強さなのかもしれない。
講演を聞いたその2日後に、大阪で大きな地震が発生した。まだ余震など続いている上に天候も不安定とのこと。これ以上の被害が拡大しないことを心より祈ります。
全2回で行われた同講演、第1回、イタリア文学研究者 武谷なおみさんのお話は、また追って。
「没後20年 知られざる須賀敦子を語る」②エマウス運動をきっかけに
朝日カルチャセンター中之島教室
2018年6月16日(終了)
21 giu 2018