「教皇になる」 |

怒涛の1カ月を過ごしていました。
4月20日、復活祭の当日。
パーパ・フランチェスコ(教皇フランシスコ)は、確かに、サン・ピエトロ広場に集まっていたたくさんの信者さんたちの前に姿を現し、「親愛なるみなさん、復活祭おめでとう」と声を発せられたのです。2月14日に入院、両肺の肺炎を患い、一時は危険な状態に直面しながらもご本人と周囲の粘り強い治療とリハビリの末に、3月23日に退院されていたパーパ・フランチェスコは、まだまだ安静が必要と言われていながらも、徐々に、そして確実に、日常を取り戻そうとされていました。復活祭に関わる幾つかの行事は、それぞれ代役に委任しつつも、この日の正午の、「ウルビ・エト・オルビ(ローマ市民及び世界の人々へ)」と呼ばれるメッセージは、ご本人が登場する予定であることが前日から伝えられていました。大歓声に包まれて登場し、発したその第一声は、掠れの残る、苦しそうな声ではあったものの、そこに戻ってこられたことに喜びを持って臨んでいらっしゃるのだろう、そう思わせる声でした。その後のメッセージ本文は代読を任されたものの、最後に、信者らに祝福を与えて、名残を惜しむかのように、その、広場正面のテラスから姿を消すと、しばらくしてアナウンスのあった通り、「パパ・モービレ」と呼ばれる白い専用のオープンカーに乗って、信者さんたちの待つ広場を回られたのです。その時は、ああ、ようやく回復されて、これから少しずつ、また日常が戻って行くんだな、と思っていました。
その晩のことです。テレビのニュースでその場面の映像を見た時に、パーパのお顔が、あまりにも「いつも」と違うのに違和感を覚えました。いつもの笑顔、ちょっと何かいたずらを企んでいるかのような快活な笑顔が全く見られず、顔色も悪く、ともかく表情がまったく固まっている。ああ、やはりまだ、あまりご体調がよろしくなかったのかな、などと思ったのを覚えています。
4月21日、復活祭(イタリア語でパスクワ(Pasqua))翌日の月曜日は、イタリアは「パスクエッタ(Pasquetta)」と言って、祝日です。なんだかんだ言って、2カ月近く忙しい日々の続いたあと、ようやくこの日は完全なオフ、のんびり起きて、さて、何をしようか・・・などと思っていたところへ、パーパ・フランチェスコ逝去、の速報が飛び込んできました。
年齢と、ご病気と、いつかは来ることとわかっていたはずなのに、この訃報は全く、寝耳に水でした。同僚に連絡し、慌てて職場へ。何をすべきか、最初に何をしたのか、あとはもう、あまり覚えていません。あっと言う間に、テレビもSNSも、そして翌日からは新聞も、追悼の記事で埋め尽くされ、ご葬儀の日取りや内容、次のコンクラーべ(教皇選挙)と新教皇候補まで、あらゆる憶測が飛び交い、また各方面からの催促や問い合わせが相次ぐ中で、ともかく正しく確実な情報を得、ただでさえ膨大化、煩雑化する業務を、せめて少しでもコンパクトに、無駄を減らすよう、自分の心を落ち着けるように務めることに終始していた、そんな日々が続きました。訃報から新教皇の就任式まで、頭が真っ白なままともかく走り出したものの、ともかくなんとか最後まで無事に終えることができたのは、さまざまな経験を持つ現地の同僚たちのおかげです。職場中がピリピリする中で、無理難題や理不尽をも共に乗り越えた、すてきな仲間たちに心から感謝です。
庶民的でユーモアがあり、人気のあったパーパ・フランチェスコは、信者でない私も少なからず親しみを感じていました。ですが当初は、その死を悼む心の余裕すら持てませんでした。4月26日にご葬儀が終わり、翌日にようやく、半日ほど家で少し休む時間が取れて、そこで初めて、それこそたくさんの追悼報道を改めて目にして、ああ、この人を失ったのだ、と、ハラハラと自然に涙がこぼれました。
翌日から、教皇選挙と、その就任式へ向けての準備です。ご葬儀とは違って、今度は必ずや近いうちに来ることがわかっている、事前に準備を進められるだけ余裕もあるはずでしたが、問題は、新しい教皇が一体いつ選出されるのか、つまり教皇選挙がいつ終わるのかが、これこそ、彼らの言葉を借りると「精霊のお導き」であり、その瞬間までわからない、ということでした。ちょうど映画の公開もあって、より注目されていた「教皇選挙」は、カトリック人口の少ない日本でも大々的に報道されましたし、ここで詳細を語る必要はないでしょう。ご存知の通り、米国から初めての教皇が選出され、レオ14世として就任されました。
巷の予測とは裏腹に、実は私、米国出身、来るんじゃないかな、と思っていたのです。ありあふれる情報を、自分で取り入れて分析するような余裕は全くなく、本当に単なる勘というよりはまぐれかもしれませんが、ちょっと自慢(?)としてここに記しておきます。ふふふ・・・。
新教皇レオ14世は、その選出直後の挨拶で開口一番、しっかり、はっきりとした口調で「パーチェ(Pace)・・・」と発せられました。イタリア語で「平和」の意味です。「平和があなた方と共にあるように」という、ミサの中で使われる言葉ですが、中継を見ながら、その、若く、力強い声に、ああ、新しい教皇が選ばれたのだ、と思いました。この数週間の間に自然と、歴代教皇の就任時の挨拶も、繰り返しニュース映像などで見てきました。皆、若くして(と言っても、民間企業ならそろそろ引退されるお年頃ですが)選出され、期待され、時には攻撃されたり中傷されたりしながら、教皇という役割を担っていらしたんだな、などと、当たり前のことを考えたりしました。
パーパ・フランチェスコが3月23日に退院された時、主治医がその後に新聞のインタビューに答えて、「教皇が(それまでの入院着から着替えて)白い服装を纏い、退院する後ろ姿を見て、『1人の病人が、教皇に戻る瞬間を見た』」というようなコメントしていたのを思い出したりもしました。
パーパ・フランチェスコは、ここ数代の教皇が眠る、総本山サン・ピエトロ大聖堂ではなく、同じバチカン管轄ではありますが、ローマ市内にあるサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂に葬られることを望まれました。世界中から参列者の集まったサン・ピエトロ広場での葬儀の後、その棺は、いつも信者たちの間を回るために使われていた「パパ・モービレ」に乗せられて、市内を回って、永眠の地へと運ばれました。沿道でたくさんの人が見送られる様子が、まさにパーパ・フランチェスコらしい、と思いました。
また、2025年は、25年に一度の聖年でもあるバチカンでは、その週末は元々、「青年の聖年」が設定されていました。そのため、翌27日の日曜日は、バチカンはボーイスカウトなどをはじめとする、たくさんの青少年たちで埋め尽くされました。子供や若者たちに囲まれることを殊更好まれた、パーパ・フランチェスコらしい幕引きです。
そして、新教皇レオ14世が就任して最初の日曜日、5月11日は「音楽隊の聖年」だったのです。新教皇の就任を祝うかのように、イタリア内外から、警察や自治体、学校の音楽隊が数多く集合し、それはまた一段と賑やかな日曜日となったのは、偶然とはいえ、出来過ぎなくらい、亡きパーパ・フランチェスコの、最後の素敵な贈り物に思えました。
バタバタしているうちに、ローマは突然、夏になりました。バタバタはもう少し続きますが、ジェラートでも食べて、なんとか乗り切っていかなくては。
2 giugno 2025











